ヨブ記7章

7:1 地上の人間には苦役があるではないか。その日々は日雇い人の日々のようではないか。

7:2 日陰をあえぎ求める奴隷のように、賃金を待ち焦がれる日雇い人のように、

7:3 そのように、私には徒労の月日が割り当てられ、労苦の夜が定められている。

 ヨブは、自分の苦しみは、徒労であると言っています。この地上のものを日々頼りにしつつ、苦役にあえぐ人々と変わらないと。地上の人間には労役があり、その日々は、日雇い人の日々のようです。ただ生活のために日々労苦するだけです。その仕事の目的もありません。日々、雇い主は変わることもあるのです。社会に貢献するのでもありません。自分の心の願いを達成することでもありません。目的のない労苦なのです。

 奴隷は、与えられた仕事をこなすだけです。彼は、日差しの中で苦しみながら労苦します。しかし、その労働は、彼にとっての目的があるわけではありません。彼は、日陰を喘ぎ求めながら、むなしく労苦しているのです。

 苦しみの目的がわからない以上、その苦しみは、むなしいのです。価値のないむなしい苦しみの繰り返しです。彼の苦しみが永遠の契約に沿ったものであるならば、体の苦しみを耐え忍ぶことができるのです。彼は、神の言葉を拒んだことがありません。しかし、今は、その従うべき神の御心が全く分からないのです。

7:4 私は 横になるときに言う。「いつ起き上がれるだろうか」と。夜は長く 、私は夜明けまで寝返りを打ち続ける。

 横になるとき、それは安息ではありません。長い夜の始まりなのです。彼は、眠れず夜明けまで寝返りを打ちます。いつ起き上がれるだろうと長い夜明けを待たなければならないのです。

7:5 私の肉は、うじ虫と土くれをまとい、皮膚は固まっては、また崩れる。

 彼の皮膚は、癒されることがありません。うじがたかり、かさぶたが覆っているのですが、固まっては、また崩れます。

7:6 私の日々は機の杼よりも速く、望みのないままに終わる。

 その一方で、彼の日々は、機の杼のように速く過ぎます。それは、期待するものがないからです。明日は癒されると期待することできるものが何もないのです。

・「望み」→紐。期待するもの。望み。

7:7 心に留めてください。私のいのちが息にすぎないことを。私の目は、再び幸いを見ることはありません。

 彼の命は、息のようにひと時で終わるものにすぎないことを心に留めていただきたいと願いました。彼は、このまま死を迎えると考えました。再び幸せを見ることはないと。

7:8 私を見る人の目は、もう私を認めることはありません。あなたが私に目を留められても、私はもういません。

 彼は、人の目から認められることはもうないと考えました。その苦しみの意味が分かれば、それによってどのように霊的命に歩むべきかが分かります。そうすれば、たとい苦しみの中にあっても、霊的な歩みができるし、人にも霊的価値を認められます。

 まして、神様が目を留められたとしても、何もないと。神の前に評価されるような何かは何もないのです。目的が分からず苦しんでいるだけだからです。

 なお、神様は、ヨブの存在をご存知ですから、目を留められる時にそこにはいないということはあり得ません。目を留められるのですから、ヨブはそこにいるのです。

・「もういません」→何もない。

7:9 雲は消え去ります。そのように、よみに下る者は上っては来ません。

 彼は、よみに下ることを想定して語っています。もう上ってはこないと。それは、消え去る雲のようです。神様の前に価値ある歩みができず、空しく消えていくのです。

7:10 その人はもう自分の家には帰れず、彼の家も、もう彼のことが分かりません。

 そのように、彼は去って行くのです。彼は、忘れ去られるのです。

7:11 ですから、私も自分の口を制することをせず、霊の苦しみの中で語り、たましいの苦悩の中で嘆きます。

 苦しみの目的がわからない以上、その苦しみは、むなしいのです。価値のないむなしい苦しみの繰り返しです。それは、霊の苦しみです。また、たましいの苦悩であるのです。それで、彼は、それらが空しくならないことを求めて、もう、口を制することをしないのです。彼は、嘆くと言いました。彼は、もう意味のない苦しみを終わらせて欲しいと願っていたのです。

7:12 私は海でしょうか、それとも竜でしょうか。あなたが私の上に見張りを置かれるとは。

 自分は、海でしょうかと問いました。あるいは、竜でしようかと。それは、あらゆることに動じないものの比喩です。自分もそのようなものの一つとみなされて、自分の上に見張りを置かれるのでしょうかと。いつまでも苦しみを与えるために見張っておられるかのようです。

7:13 寝台が私を慰め、寝床が嘆きを負ってくれると私が思っても、

7:14 あなたは、いくつもの夢で私をおののかせ、幻によって私をおびえさせます。

 その証拠として、一時でも、眠ることで安らぎの時を求めても、与えられないのです。夢がヨブをおののかせ、幻が彼を怯えさせるのです。それらは、神様から与えられるものです。人の何かによらないからです。神様が見張っておられる以外考えられないのです。

7:15 私のたましいは窒息を、私のからだではなく死を選びます。

 窒息は、息の出入りがない状態です。たましいが神の霊に従って生きることが息をすることであり生きることです。たましいは、それを止めることを選びます。目的あるいは神の御心が分からないままの状態で、神に従い続けることを止めることを選ぶと。

 そして、神から受けいている自分のうちにある教えに従って生きるのではなく、死を選ぶと。この死は、霊的な死です。神の御心の内を歩むことを止めることです。肉体の死は、神の主権に属することですから、自分ではいかんともしがたいことです。

・「からだ」→骨。自分自身の持つ教え。信者の場合、正常ならば、神の教えに整合している。

7:16 もういやです。いつまでも生きたくありません。かまわないでください。私の日々は空しいものです。

→「私は、永遠を拒まなかった(完了形)。私は生きるでしょう。一人にしてください。なぜならば、私の日は、息だから。」

 彼は、永遠を拒まず、彼は、永遠の命を持っていることに疑いはありません。彼は、生きるでしょう。それでも、今、見張りを置いているかのように苦しみを与え続けることをやめていただきたいと願っています。一人にしてくださいと。この地上の命は、息のようです。すぐに過ぎ去るからです。

 

7:17 人とは何ものなのでしょう。あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。

7:18 朝ごとにこれを訪れ、その都度これを試されるとは。

 彼は、自分の苦しみは、主から来ることをわきまえていました。しかし、彼は、それを尊いことと考えています。なぜならば、そのように苦しみを与えることは、主が人に心を留めておられるからであり、その人を毎朝試しておられるからです、無関心であれば、そのようなことはしないのです。

7:19 いつまで私から目をそらしてくださらないのですか。唾を飲み込む間も、私を放っておいてくださらないのですか。

 主が彼に目を注いでいることをよく知っていました。その苦しみが絶えることがないことは、主が目を注いでいることの証拠です。唾を飲むわずかな間も放っておかれないのです。

7:20 私が罪ある者だとしても、人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう。どうしてあなたは、私を標的とされるのですか。私は、自らを重荷としなければならないのですか。

→「私は、罪を犯した(Qal完了形)。人を見張るあなたに何ができるでしょう。」

 彼は、神の前に罪を犯したのです。ただし、彼は、捧げ物をもって清めています。神が見張るならば、何もすることはできないのです。無罪だと主張することもできません。神が人を見張られたら、全く正しいとは言えないのです。

 そのように、神が見張られて、彼を標的とするならば、逃れようがありません。その罪をことごとく数えたら、反論ができません。心の片隅に思ったことさえ、罪と認定されるでしょう。もしこの苦しみがそのようなことに対する裁きとして与えられるのであれば、彼は、何もできません。罪が常に神の前に責められるものとなるのです。それは、自らを自分の重荷とすることです。

7:21 どうして、あなたは私の背きを赦さず、私の咎を取り去ってくださらないのですか。(なぜならば)私が今も、ちりに横たわらなければならないとは。あなたが私を捜しても、私はもういません。

 彼がこのような苦しみを受け続けているのは、主がその背きを赦さず、咎を取り去ってくださらないからだと。それは、今も、塵に横たわっているからです。終わりがないのです。

 神がいつまでも背きを責め続けられるのであれば、彼は、何もできません。悔い改めることもできません。たとい、告白したとしても、赦されないのです。責め続けられるのです。そのような状態が続く中では、神と共に歩む霊的な命は、経験できないのです。神がヨブを求めても、彼は、神と共に歩めないのです。霊的命は何もありません。

 なお、神が探しても、もういないということはあり得ません。神は、ヨブの所在をご存知であるからです。

・「もういません」→何もない。